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坂の上の雲 Archive

乃木希典、児玉源太郎の特設ページを作成

この週末で、『坂の上の雲』のもう一方での主人公である「乃木希典」と「児玉源太郎」の特設ページを作成しました。
Z旗: 坂の上の雲 – 乃木希典 「仁義忠信勇謀」 
  http://www.z-flag.jp/sakakumo/nogi/index.html
Z旗: 坂の上の雲 – 児玉源太郎 「稀世の英雄」
  http://www.z-flag.jp/sakakumo/kodama/index.html
まだまだ内容が不十分ですが、これからこつこつと記していこうと思います。

ロシアが敗れた理由は、愛妻家だから?

日露戦争の勝因については多々ございますが、1903年(明治36年)に小笠原長生がロシアの艦長と対面した時に、艦長室にきれいな女の写真が飾ってあったので、艦長に向かって、
「大変これは美人ですね」
といったところ、ロシア艦長は非常に得意になって、
「それは私の妻と娘だ」
といった。
「こういう連中は一日も早く自分の帰ることを首を長くして待っている。だから戦争などということはおれは嫌いだ。今の海軍の戦争というものは残酷なもので、弾が一つ飛んでくると足が飛んだり腕が飛んだりしてしまう。もしそんなことがあって自分が怪我でもしたならばこの婦人どもは非常に歎くものだから、絶対に戦いなんかしたくはないね。」
ロシア人は毎日毎日手紙をやりとりして、妻のために戦いができないというような気分であったといいます。実は偵察も兼ねていた小笠原長生はこの時ロシアの士気の弱さを見抜いたといいます。
ところで日本はというと、
第二回万国平和会議(明治40年)の時に森山慶三郎が秋山好古に何かの話から
「秋山さんは出征中、奥さんに手紙をやったことがありますか」
ときいたところ、
「いや俺は一年半のあいだ一本もやらぬ」
と答えたといいます。

楽天家とは?

坂の上の雲のあとがきに、

このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

『坂の上の雲』(あとがき一)より

と、「坂の上の雲」の意味するくだりがあります。
ただ、楽天家というのを辞書でひくと、「明朗快活で、やがてよくなるという希望を持っている人」と説明されています。果たして秋山兄弟、正岡子規たちをこんな「成り行き任せ」の軽いことばでくくっていいのか、司馬氏はどうしてこの楽天家ということばを用いるのか、正直ちょっと不満を感じながら違和感を覚えていました。
ここ最近は、同じ司馬作品の『翔ぶが如く』を読んでいます。
その中で、司馬氏の楽天家の解釈が記載されてました。

村田新八は陽気な男とはいえなかったが、志士あがりの男に多い楽天家であった。どういう悪い状況下でも、前途にかすかな光明を見出しては志をみずからはげましてゆく性格のもちぬしであった。

『翔ぶが如く』(そのひとびと)より

楽天家とは「どういう悪い状況下でも、前途にかすかな光明を見出しては志をみずからはげましてゆく性格」。自力的で、これなら納得がゆきます。
本日は、長い間、のどにひっかかっていた小骨がとれたような気分です。

征露丸(正露丸)にあやかれ! 戦勝グッズ

「征露丸」(正露丸)といえば、日露戦争時に陸軍衛生材料廠が前線の兵士のために生産した「伝染病予防薬」ですが、実のところは国産化したクレオソートに生薬を数種加えた「胃腸薬」でした。
それでも日露戦争に勝利したものだから、帰還する兵隊さんから「征露丸」のご利益が口から口へと伝えられたので、人気はうなぎのぼりに上昇しヒット商品となります。当然ヒット商品が誕生すれば、その人気にあやかれと様々な商品が出てくるのは今も昔もかわりません。
気付け薬の「日露丸」にキズ薬の「戦友膏」、腹に巻いて風邪を防ぎ胃腸を守る「勝利綿」などの薬品が登場します。その他に戦域を染め抜いたハンカチに、戦勝を歌いこんだカルタや双六、お菓子では「神風おこし」に「東郷」、戦地まで送っても腐らない「マシュマロ」などがあります。
なお余談ですが、「日清食品」は日清戦争とは関係がないそうです。

秋山好古の赴任した愛知県師範学校

法華寺町
当時18歳の秋山好古は歳を偽って師範学校の教員試験に合格し、そして「愛知県立名古屋師範学校付属小学校」に赴任します。

坂の上の雲〈1〉

名古屋についた。
――県立師範学校はどこですら。
ときくと、医学校とならんで名古屋における最高学府であるだけにすぐにわかった。その付属小学校が好古のあたらしい職場だった。
『坂の上の雲』(春や昔)より

ということで、本日はこの「愛知県立名古屋師範学校址」を訪ねてみることにしました。
でも、当時と違って今の名古屋市でさっぱり場所がわかりません...
ならばということで、図書館に駆け込み調べてみました。沿革は下記の通りとなります。

  • 明治6年12月、名古屋久屋町(現・久屋町1丁目)に「愛知県養成学校」を開校
  • 明治7年年8月、法華寺町(現・東桜2丁目)に移転
  • 明治9年8月、「愛知県師範学校」と改称
  • 明治10年2月、本町1丁目(現・丸の内2丁目)に移転
  • 明治19年8月、「愛知県尋常師範学校」と改称、武平町に移転
  • 明治30年4月、東芳野町に移転、再び「愛知県師範学校」に改称
  • 明治32年4月、「愛知県第一師範学校」と改称
  • 昭和18年4月、「愛知第一師範学校」と改称
  • 昭和24年5月、「愛知学芸大学」と改称
  • 昭和41年4月、「愛知教育大学」と改称
  • 昭和45年4月、刈谷市に移転
秋山好古が名古屋に赴任してきたのは明治9年7月で、そして翌年の3月には東京の陸軍士官学校に入校し名古屋を離れます。ということから秋山好古が赴任した「師範学校」は法華寺町(現・東桜2丁目)の地となります。

早速行ってみました。しかし、1時間ぐらい探索にもかかわらず、結局はそれらしい址は見当たりませんでした。仕方ないので「法華寺町」の石碑を写真におさめることにしました。

まあ、秋山好古がこの地に来たことは確かですので、同じ空間を共有できたのは満足しています。

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